長年愛用してきたオペラグラスを買い替えた。
以前、使用していたものは旧歌舞伎座の幕見席の受付で購入した玩具のような代物だった。
それはそれで気に入って使っていたのだがさすがに10年近く使った為か、ボヤけて見えるようになってきたのだ。
秋葉原の某家電店で購入した新品のオペラグラスを鞄に積めながら、またしても旧歌舞伎座が古い思い出になっていくのかなと思った。
建て替えの前後に名優たちが鬼籍に入った事と同じように…。
2月は日を分けて昼の部に「すし屋」、夜の部に「熊谷陣屋」を観劇。
かたや、尾上松緑が初役を務める新鮮な舞台である一方で、かたや人間国宝・中村吉右衛門の先代から引き継ぎ続けたお家芸という対象的な舞台。
しかし、どちらも源平の合戦を題材にした演目であり、作者には並木千柳がいずれも関与しており、何よりも両方の舞台で共通するのは使命の為に自身の家族ですら差し出すという狂気にも似た忠節と、その後に溢れ出る哀切かと思う。
「親が子の為に何でもしようとする姿を浅ましいと思ってはいけない」というような文章を二人が生きた時代の更に少し後に草案で硯に向かっていた吉田兼好が「徒然草」に残しているが、この認識は現代人もこの舞台が作られた江戸時代の人間も同じなのかもしれない。
尾上松緑が初役と努めた「いがみの権太」は無頼な生活を送った挙げ句、親を騙して金をせしめようとするどうしようもない親不孝者だが、実は親孝行をする機会を伺ってもいる小悪党。
父親を欺いてまで平維盛一家を助けた末に、誤解した父に刺されるのだが、最後の最後に源頼朝に自身と家族の命がけの計略があっさり露見したばかりか、その温情で最初から平維盛を逃がすつもりであった事が判明しての幕。
改心して親に尽くそうとしたにも関わらず、その努力が台無しになってしまうというある種の滑稽さと残酷さが入り混じっている場面だが、権太の末期の独白は、それらを超えて家族を思う一途さに満ち溢れていたように思う。
演じた尾上松緑はその口跡の良さと押し出しで小粋で愛嬌のある小悪党を初役とは思えないぐらいのハマり役。
以前、同じ「義経千本桜」で「平知盛」を努めた舞台を見たが、それに比べると何故これまで演じる機会がなかったのか不思議に感じるぐらいで、是非また見てみたいと思いさせてくれた舞台だった。
一方、中村吉右衛門が熟練の業を見せた「熊谷次郎直実」は勇猛さと知性を兼ね備えた武人。
息子を心配して戦場からやってきた妻・相模を叱りつける無骨さを見せる一方で、旧恩のある藤の方には頭が上がらない生真面目さ。
そして、藤の方の子である平敦盛を源義経の命により守る為に自身の息子である小次郎の首を差し出す狂気にも似た忠誠心を見せる。
そんな彼が必死の形相で真実を隠し続けた末だからこそ、最後に父親としての悲しみと殺した息子への思いを溢れさせる幕がより際立つ。
ところどころでそれとなく匂わせながら、最後まで自身の気持ちをあまり表に出さない熊谷。
匂わせすぎればわざとらしいし、そっけなく勤めれば最後の独白が嘘くさくなってしまう。
その辺りの塩梅が良く効いていて嫌みさやくどさをまったく感じないのが吉右衛門の熊谷だったかと思う。
やはり体力的に厳しいのか口跡が以前ほどではないように見えたが、それでも至芸。
この吉右衛門の舞台を私達はあと何回見られるであろうか…。
そう考えると、やはりオペラグラスを買い替えたのは正解だった。
一番の山場である制札の見得を始め、多くの場面が表情までくっきりと見えて芝居により集中できたように思えた。
新しく手に入れたものによってもたらされた恩恵によって古き良きものがより輝いて見える。
そういう事も悪くはないのかもしれない。