令和元年11月某日
於 国立劇場
序 幕 鎌倉大倉御所の場
二幕目 南都東大寺大仏供養の場
三幕目 手越宿花菱屋の場
四幕目 日向嶋浜辺の場
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先週の青空が嘘のように雨が降りしきる週末。
久方ぶりに国立劇場を訪ねました。
国立劇場の公演記録を見返していつ以来かと調べてみたら2017年3月以来。
勿論、令和の御世に入ってからは初の国立劇場での歌舞伎観劇です。
いつもは歌舞伎座でも国立劇場でも天井桟敷の片隅で見ている私ですが、思い切って今日は一等席を取りました。
それだけ久しぶりの国立劇場での中村吉右衛門丈の舞台は楽しみでした。
開演まで少々時間があるうちに到着しましたが、早速チケットを発券しようと入場券売り場に行くとチケット発券機の仕様が変わっていました。
なんと今までのクレジットカードでの払い出しが出来なくなっているのです…。
後で調べたら今年の3月にリニューアルしたとの事。
偶然いつもは持ってこないQRコードを使って発券できましたが、番号やQRコードを入力するのが煩わしくてクレジットカードで発券していた私のようなズボラな人間は困惑してしまいました。
まあ、セキュリティ上で問題あるように思えましたから仕方ないのでしょうけれど…。
チケットも無事に発券出来て駐車場の方を見ると幾つか立て札が目に付きました。
「そういえばあの辺りの立て札は見たことないな」という事を思い出しました。
見ると平成24年3月に「熊谷陣屋」の熊谷信直を演じた故市川団十郎丈が植樹した「熊谷桜」とありました。
勿論、「一枝を折らば一指を伐るべし」なんて立て札はありません。
「熊谷陣屋」と言えば私が好きな演目の一つで、思えばこの公演が私の「熊谷陣屋」の初観劇でしたから大変感慨深いです。
と同時にこの公演にちなんでこんなイベントがあったのは5年経過して初めて知りました。
ちゃんと見てなかったんですね…。
その後も弁当を買ったりイヤホンガイドを借りたりしてフラフラしているうちに開演時間。
今回、観劇したのは「孤高勇士嬢景清」。
「大仏殿万代石楚」と「嬢景清八嶋日記」という悪七兵衛景清を主人公にした演目を組み合わせて松貫四こと中村吉右衛門丈が新たに再構成した演目です。
もっとも、「嬢景清八嶋日記」は「大仏殿万代石楚」を下敷きにして作られた演目だそうですから分割した話を新たに再構成したと考えて良いかもしれません。
主人公の悪七兵衛景清こと伊藤景清はこの舞台では2つの顔を見せます。
一つは二幕目の「南都東大寺大仏供養の場」に登場する荒々しく豪快な豪傑・景清。
もう一つは後半の「日向嶋浜辺の場」での自ら両目を潰して盲目となり復讐への執着心と娘への愛情に懊悩する人間・景清。
前者の景清は単身で源頼朝の元に乗り込み僧兵や三保谷を容易に蹴散らす超人的かつ不敵ではあります。
僧形からのぶっ返りに荒事めいた台詞回しとケレンに溢れたその姿はまさに巷間に語り継がれてきた英雄そのものです。
しかし、最後に小松内大臣重盛への忠義と頼朝への義理の板挟みにあい両目を潰すという不器用な形で折り合いをつけようとする姿は後者の景清の人間的な弱さに溢れた景清に通ずるものがありました。
頼朝から自身の復讐を果たさせる為に源氏の象徴である白旗を与えられそれを切り裂いた景清は史記の刺客列伝に登場する豫譲を彷彿させます。
豫譲は趙襄子の衣を切り裂いた後に死を選びましたが、景清は自身の目をくり抜いて復讐を捨てて生きるというより苦しい道を選んだという事なのでしょう。
一方で、四幕目の景清は盲目となり里人からの施しで何とか食いつなぐ弱々しい姿は哀れみを誘うばかり。
最初は拒んでいた娘を受け入れて、盲目になったその目で娘の顔を何とか見ようとする場面は、本当に切なくて思わず涙が出てきましたし、娘が自身の為に女郎屋へ身売りしたと聞いて半狂乱になる姿は「俊寛」の最後の場面を思い起こさせるような悲劇性を感じさせます。
しかし、最終的には苦界に身を落としてでも孝行しようとする自身の娘の為に生きる事を決意する人間的な強さを見せますから、これもまた前者とは違う意味での「孤高勇士」という事なのでしょう。
同一人物ながらも非常に落差の大きい二人の景清を演じ分ける吉右衛門丈の至芸は素晴らしいものがありました。
特に、盲目になった後の景清は戦後になってようやく人形浄瑠璃に近い造形が出来るようになったという大変な難役。
見えるのに見えない者を演じるという苦労は並大抵ではないでしょうが、まったく違和感がないのは見事としか言いようがありません。
ちなみにこの舞台を見てふと気づいたのが、復讐というテーマがあるにも関わらず登場人物が一人も死なないうえに、源頼朝や畠山重忠はともかく、梶原景時や女郎の肝煎と言っただいたいの舞台では悪人として描かれがちな人物たちですら玉依姫や糸滝の境遇に涙を流すような善人揃いである事。
ともすれば話のメリハリを付けにくいとも思えるこの趣向ですが、後からじっくり思い出すと合点がいきます。
復讐を捨てた景清にしろ、許嫁の仲章を失った玉依姫にしろ、劇的な死を選ぶのではなく苦しみながらも生きる事を選ぶという姿が際立っている以上は安易に登場人物の死を描くのはかえって無粋に感じます。
また、周囲が善人だらけなのは、そんあ良き人たちに囲まれても尚、復讐への執着心を捨てられない景清という人間の悲劇を際立たせているかのように思えてきます。
勿論、上記はいずれも私の勝手な解釈。
しかし、勇者であり弱者であり父でもあるという様々な姿を見せた景清同様に、色んな角度で考える事が出来る舞台と言えるかもしれません。
そんな事をあれこれ考えながら劇場を後にして帰る雨の道すがらもまた楽しいものです。