-「鉄人」衣笠祥雄死去-
その第一報に私が接したのはちょうど、その日カープに試合が行われる横浜スタジアムに向かうべく自宅でユニフォームなど諸々の応援グッズをクローゼットから引っ張り出している最中でした。
接した途端は呆然とし、その後からみるみる涙が溢れてくるのを堪えきれませんでした。
電車に揺られながらSNSで続報を眺めながらぼんやりしているうちに到着した曇天の横浜公園で待ち構えていたのは、通常では考えられない数のテレビ局や新聞記者たち。
日本記録保持者で国民栄誉賞も受賞したこの偉大な選手の逝去についてファンの声を記事にしようと集まったのは容易に想像できました。
ほどなく私のところにも某通信社の女性記者がやってきて「衣笠さんが亡くなられました事についてですが…。」という風な事を聞きに来ましたが、話そうとした瞬間にまた涙が溢れ声も震えて上手く話すのに難儀しました。
確か、「カープのOBであると共にTBSの解説者としてもベイスターズの試合も見続けた方なので今日は両チームとも良い試合を見せるのが何よりの手向けだと思います。」のような事を何とか答えたと思います。
しかし、一方で「衣笠さんはあなたにとってどのような選手でしたか?」という質問については上手く答えられませんでした。
というのも、私が物心ついてプロ野球を…というよりカープを見始めたのは平成に入ってからで、一番記憶の奥底にある初めて覚えたと思われるプロ野球選手の名前は北別府とロードンです。
そんな始末なので衣笠祥雄については物心ついた頃の記憶にあるのは「ますやみそ」のCMとパーソナリティを務めいたラジオ番組での声ぐらいで現役時代の事は昔の伝聞でしか知らない選手。
素直にその事を伝えると私より遥かに若い女性記者氏もちょっと困ったような表情を浮かべました。
伝聞でしか知らない選手について親戚の葬式でもあまり泣かない人間が涙を浮かべるのは確かに奇妙な話でしょう。
しかし、彼の歩んだ野球人生とカープとの深い関わりの偉大さを考えれば、昭和の野球を知らない私のような者でもやはり大きな喪失感を抱いてしまうのです。
その訃報に接し、衣笠祥雄の足跡を振り返るうえでメディアから語られるキーワードと言えば「鉄人」「連続出場記録」「国民栄誉賞」。
とはいえ、そのキーワードだけでこの選手を語るのは正直、違和感があります。
彼の最大の偉業である「2215試合連続出場記録」は不滅の日本記録であり、1996年にカル・リプケンJrに更新されるまでは世界記録ですらありました。
これが本当に偉大で素晴らしい記録なのは、ここでわざわざ書くまでもありません。
一方で「とにかく試合に出続ける」というその記録の困難さと特殊性ゆえに現役晩年はファンからも批判や疑問の声があったのも事実です。
しかし、その単純に「休まなかった」という事実以上に重要なのはその間にかつて「お荷物」「貧乏球団」と揶揄されたチームは5度の優勝に3度の日本一と歴史上最良の時期と一致するという事。
のみならず、彼は個人記録でも2543安打(球団史上最多)に504本塁打(球団史上2位)を放ったうえに266盗塁を数え、プロ野球史上で3人しかいない「打点王と盗塁王の受賞歴がある野手」でもありました。
また、同学年の山本浩二とのコンビはカープの球団史のみならず球史でも屈指の強烈さを誇り、二人が1試合で同時に放った本塁打数86本は球界史上、王貞治と長嶋茂雄の「ON」の106本に続く多さです。
何より素晴らしいのが二人で合計1040もの本塁打を放ちながら、盗塁数も二人合わせ497に上る事でしょう。
メジャー含めた野球の歴史でこれだけの高い長打力と機動力を併せ持ち長期間活躍したユニットが今後登場するのは恐らく困難かと思います。
つまり、衣笠がカープファンに選手としてこれほど愛された理由はその長打力と機動力を高い次元で併せ持ったプレースタイルを山本浩二ともども長期間に渡って維持し、チームを勝利に導き続けたという事実でもあり、決して「連続出場記録」だけでその偉大さを語れる選手ではないという事です。
次いで衣笠の魅力を語るうえで逝去後に目にするのがその人柄。
多くの記事を眺めるとだいたいは「死球を受けても怒らない」「いつも笑顔で優しい」「大記録に挑んだ真面目な人物」というような内容。
実際に現役時代から彼に接したであろう記者の方たちもそう書いているのですから、決して間違いではないでしょうが、これまたそれだけで彼の魅力を語れないような気がします。
入団当初は高級外車を乗り回し、当時ベトナム戦争の特需で沸いていた近隣の岩国市で遊び回るなど最初から真面目一筋な選手とは言えなかったようです。
その後真面目に野球に取り組んで、山本浩二、水谷実雄などと競い合い主力選手となった後になると、今度は上記のように賛否の分かれる難しい記録に挑む以上、周囲との葛藤も少なくなかったかと思います。
衣笠が連続出場記録達成後に口にした「この記録の偉大さが分かるのは、この記録を超えた人だけだろうから」という言葉からもそれは伺えます。
また、現役時代は自宅ではスポーツ新聞を読まないようにしているぐらいに周囲の声に対して繊細な部分もあったとの事ですから、平成に入ってなお、今とは比較にならないぐらい汚い野次や罵声が内野席から飛び交っていた旧市民球場で試合に出続ける事は本人にとって大変難しい事だったと考えられます。
あくまで推測ですが、そういうある種の気難しさにも見える繊細さが、チームが低迷する度にファンから待望論が上がったにも関わらず果たせなかった要因の一つであったかもしれません。
また、「アウトロー」の代名詞とも言えたあの江夏豊が衣笠に大きな信頼を置いたのも、あの「江夏の21球」での「お前が辞めるなら俺も辞める」と声をかけた有名なエピソード以上に、優しいだけでなくプロとして試合や記録に挑むその厳しさと孤独という点でお互いに共感しあえた部分が、あったのではないでしょうか。
昔、在阪のテレビ局で「大阪のタクシードライバーが選ぶ好きなプロ野球解説者ランキング」という風なコーナーで在阪球団の選手でなかったにも関わらず上位になっていたぐらいに優しく公平な解説に定評があった衣笠。
しかし、その実像は広大無辺に優しい人物という訳でなく、真偽不明な情報が未だに飛び交うその生い立ちと同様に、優しさと同居した複雑さがあった人物でもあり、それもまた魅力に思えます。
優しくもあり気難しくもあり厳しくもあり…。
野球に限らず、他のアスリートでもそうですが偉大な記録を作り上げた人物を一つの枠に収めて語るのは大変難しい事という事の一例なのかと思います。
今日も、旧市民球場跡地にオアシスの如く残された「勝鯉の森」に佇む衣笠祥雄の「連続試合出場記録」の石碑には多くのファンが訪れ花を手向けている事でしょう。
今は、私がそうであるように偉大な男を失った喪失感ばかりが強いでしょうが、それが落ち着いた後はここに訪れる一人一人自身がカープと共に歩んだ、もしくは今から歩むであろう人生に改めて思いを馳せる事になればと願わずにはいられません。
かつて、テレビの取材で「広島という街がカープを強くした」と答えた衣笠。
ですが、それは私たち広島に生まれ育った者もまた衣笠とその仲間たちが強くしたカープによって強く生きる事できたという事でもあります。
何故なら戦争も原爆も経験した私の家族にとって、そこから生まれたカープの歴史は歩んだ戦後の家族の歴史そのものであり、その「家族の歴史」に華々しく大きく咲いた花の一つがまさに衣笠祥雄という一人の男の残した足跡だったのですから。
衣笠祥雄。
あなたは私達に「僕に野球に与えてくださった神様に感謝したいと思います」と言いました。
だから私達も最後に今日はこう返したいと思います。
「神様、衣笠祥雄を私達に与えてくれてありがとう」と。