幼いころに親しんだものが趣味や嗜好、時として人格の形成にすら影響を与えるというのは往々にしてあるものですが…私にとってそれはテレビ時代劇でした。
その中でも特に好んだものの一つに二代目中村吉右衛門丈が長谷川平蔵役を演じた「鬼平犯科帳」が挙げられます。
この故池波正太郎氏の原作の素晴らしさを損なわずその世界観の映像化に見事に成功した日本のドラマ史に残る屈指の名作の根幹を成したのが、悪に対する厳しさと共に庶民への愛情を兼ね備えた好人物としての長谷川平蔵を現出させた中村吉右衛門丈の演技にあるのは私などが言うまでもありません。
また、私にとって中村吉右衛門丈は14年前に上京して以降の大切な趣味となった歌舞伎観劇の道標ともなった役者でもあります。
古典歌舞伎で多くの立役を務め、テレビ時代劇でも垣間見えた重厚さの中にある軽妙さ、怒りや勇猛さの中に潜む優しさ、笑いの中にある哀しみといった機微をそれとなく感じさせる舞台での姿は、古典芸能が持つ奥深さと面白さを現代に生まれ育った私に教えてくれました。
それまでテレビの中でしか見た事が無かった中村吉右衛門丈を舞台で初めて見たのは2008年2月の歌舞伎座での「恋雪積関扉」の大伴黒主…それ以降は主に幕見を中心に俗に当たり役と言われる「盛綱陣屋」の佐々木盛綱、「熊谷陣屋」の熊谷直実、「渡海屋・大物浦」の平知盛、「河内山」の河内山宗俊、「吉野川」の大判事清澄、「松浦の太鼓」の松浦公、「一条大蔵譚」の一条長成と彼目当てで見に行った舞台は数えきれませんが…。
その中でも個人的に特に印象に残っているのは「熊谷陣屋」の熊谷直実と「吉野川」の大判事清澄でしょうか。
熊谷が「制札の見得」で敦盛の首が実は息子の小次郎である事を隠そうとしてパニックになった相模と藤の方を止める場面でのを自身の気持ちを押し隠してあくまで厳粛さを崩さない姿には劇場全体に緊張感が走るような厳粛さを感じましたし、清澄が太宰後室定高と川越しにお互いの家の為にそれぞれの子供を手にかけてしまった事を悟る場面は定高を務めた坂東玉三郎丈との対比もあって何とも言えない感覚で身体に一瞬電気が走るような衝撃を受けた記憶があります。
また、最終的に遁世を決意する熊谷が花道で自ら手にかけた小次郎に思いを馳せる場面や、清澄が死して初めて結ばれた息子久我之助と定高の娘である雛鳥の為に川に流した雛鳥の首桶を弓でかき寄せる場面はいずれもそれまで押し隠してきた情念が解き放たれたかのようで今思い出しても切ない気持ちが蘇ってきます。
上記の二人はいずれも忠義や義理の為に息子の首を差し出すという現代人の感覚からすれば理解し難い行動をせざるを得ない状況に追い込まれる人物です。
にも関わらず、舞台を見ていても違和感がなくそんな二人の心情を受け入れられたのは古典歌舞伎の古さの中にある現代人にも引き継がれた普遍的な感情を余すことなく中村吉右衛門丈が伝えてくれたからなのだと思えます。
勿論、「松浦の太鼓」の松浦候や「河内山」の河内山宗俊など基本的にハッピーエンドで終わる演目でのコミカルでありながら威厳を忘れない役柄も忘れがたいものでした。
そんな中村吉右衛門丈を最後に舞台で見たのは2019年11月国立劇場での「孤高勇士嬢景清」の悪七兵衛景清でした。
松貫四の筆名で自身が脚本も担当した、武士としての誇りと仇敵への義理の為に自身の両目すら潰した武人が葛藤の末に最後は愛する家族の為に生きる事を決意するまでの物語は悲劇ではありながら救いのある終わり方で、観劇した後はどことなく好い心持になって家路に就いたのを覚えています。
以降はコロナ禍で劇場自体に足を運ぶことがなかなかできなかった事もあり、舞台で吉右衛門丈の姿を見られなかったのが、返す返すも悔やまれます。
多くのファンもそうでしょうが、せめて熊谷陣屋などは私ももう一度だけでも見たかったです。
幼いころはテレビ時代劇で…大人になってからは劇場で…と数えきれない感動と、人生を考えるうえでの示唆を与え続けてくれた中村吉右衛門丈の訃報を12月1日に聞いた時は一時仕事が手に付かないぐらいにショックでした。
一方で、今となってはその見せてくれた世界に対する感謝の気持ちも大きくはなっています。
「熊谷陣屋」で僧形となった熊谷の最後のセリフにある「十六年は一昔…夢だ夢だ」ではありませんが、初めて舞台を見て以降での13年で私が中村吉右衛門丈から見せてもらった「夢」は本当に素晴らしいものでした。
改めてあの頃に劇場で味わった感情や感覚に思いを馳せる次第です。